京都の護王神社といえば、いのしし神社ね、という方も多くいらっしゃいます。神の使いのイノシシがこれほど有名になっているのは、なぜなのでしょうか?
京都の猪神社といわれている護王神社について、カンタンに説明します。また、護王神社の御祭神である和気清麻呂の物語やイノシシとの関わり、歴史(御由緒)についても言及しました。
こういった基本情報を知った上で参拝すると、感じ方もきっと変わると思いますよ。
京都の猪神社である護王神社を簡単に説明すると?
たいていの神社では、鳥居や拝殿の前に狛犬が鎮座しているものです。ところが、京都市上京区にある護王神社では、どちらにもググッと伸びをした「狛猪(こまいのしし)」が置かれています。
これだけじゃありません。ほかにも、手水舎にはブロンズのイノシシ像、奥にはチェーンソーアートによるイノシシの木像、招魂樹(おがたまのき)の根本にイノシシの石像など、境内はイノシシだらけ!
また、日本全国からさまざまなイノシシのグッズが奉納されており、中には外国産のものまで混ざっています。
絵馬やお守りにもイノシシのモチーフが入っているなど、いたるところに散りばめられているその様は、まさに日本一のイノシシ神社と言えるでしょう。
イノシシが神の使いとして崇められているのですが、なぜここまでイノシシづくしなのかというと、護王神社の御祭神である和気清麻呂公がたくさんのイノシシに助けられたというエピソードがあるからです。(詳しくは後述)
300頭もの猪に守られたということですから、それだけの数のイノシシを境内に置きたいと思ったのでしょうか?(コレクションなどを含めると、既に超えていると思われますが・・・)
護王神社に伝えられる和気清麻呂の物語
1851年、ペリーが浦賀に来航してくる2年前、外国からの脅威が刻一刻と迫っていた中、時の孝明天皇はとある人物に「正一位護王大明神」の位を与えました。
平たく言えば、数多ある神様の中でも最高ランク、という意味です。その人物の名前は和気清麻呂(わけのきよまろ)。
今から1200年ほど前、奈良時代から平安時代に活躍した朝廷の役人です。どうして孝明天皇は、この一役人に過ぎない清麻呂に、称号を与えたのでしょうか。
そんな、和気清麻呂が天皇にとって重要な人物である理由は二つあります。
天皇の血統
ひとつめは、天皇の血統を守ったことです。
奈良時代に権力を振るった弓削道鏡(ゆげのどうきょう)という僧侶が、天皇の皇位をいただくことを企んでいました。
そんな折、大分県の宇佐八幡宮から「道鏡を天皇にすれば天下は泰平である」との神託が出た、という噂が流れました。
そこで、時の称徳天皇は、宇佐八幡に役人を派遣し、神託が本当かどうかを確認させました。その役人こそが清麻呂なのです。
清麻呂は宇佐八幡に行くと「皇位は天皇の一族が継ぐべし」との神託を聞きました。
ここで清麻呂がただの小役人ならば、権力者である道鏡に屈し、神託を捻じ曲げたかもしれません。しかし、清麻呂は神託の内容をそのまま天皇に伝えました。
ここで道鏡の野望はついえたのです。
道鏡の怒りを買った清麻呂は、大隅国(鹿児島県)への流罪の刑と「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」の名前をいただくこととなりましたが、清麻呂の勇気ある行動が、皇室を現在まで存続させたのです。
平安遷都
もうひとつは、平安遷都に大きく関わったからです。
奈良の平城京からの遷都を考えた桓武天皇は、当初は長岡(京都府長岡京市)遷都を考えていました。
しかし、建設担当者が暗殺されたりと、不安定な政情が続き、遷都の計画は頓挫しかけました。ここで清麻呂は、桓武天皇からアドバイスを求められました。
清麻呂は長岡遷都をやめて、別の地に都を移すべきですとアドバイスしました。その地こそが平安京となり、千年以上の歴史を築くこととなるのです。
皇室の伝統と千年の都。日本文化を象徴するこの二つに関わった清麻呂は、没後、自らが建てた神護寺(京都府右京区高雄)に墓が作られました。
国家の一大事を二度も救った男、幕末直前の孝明天皇が持ち上げたくなるのも当然です。
ちなみに護王神社の境内には、護王神社の創建年は不明とされていますが、現在地の蛤御門前に移されたのは、幕末真っ只中の1866年です。遷座を命じたのは、即位したばかりの明治天皇です。
護王神社が足腰の守護といわれる理由
護王神社には、足腰の健康にご利益があると言われています。その由緒にも清麻呂は関わってきます。
実は道鏡によって大隅(鹿児島県)流罪に遭うとき、足の腱を断たれていたのです。しかし、自らが守った皇室に感謝しようと、流罪中に再び宇佐八幡宮に寄ろうとしたのです。
そんなとき、突然現れたイノシシが、清麻呂の乗る輿を囲んで道案内をしてくれたのです。その数300!尋常ではないですよね。
いつ道鏡から命を狙われるかわからない状態の清麻呂を、イノシシが守ったのです。
無事に参拝を終えた清麻呂。すると、不思議なことに足の負傷が癒えており、再び歩けるようになったのだとか。
こんな逸話から、足腰を守護する神社として信仰が厚いのです。
プロのスポーツ選手は足腰が大切だものね!
護王神社の歴史(御由緒)は?
では、護王神社の基本的な情報もチェックしておきましょう。
御祭神 | 護王大明神 和気清麻呂公命 (ごおうだいみょうじん わけのきよまろこうのみこと) |
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子育明神 和気広虫姫命 (こそだてみょうじん わけのひろむしひめのみこと) |
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配祀 | 藤原百川公命 (ふじわらのももかわこうのみこと) |
路豊永卿命 (みちのとよながきょうのみこと) |
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末社 | 久邇宮家御霊殿 (くにのみやけごれいでん) |
警察消防招魂社 (けいさつしょうぼうしょうこんしゃ) |
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祖霊社(近衛社) (それいしゃ/きんえいしゃ) |
最初の護王神社は、高雄山神護寺の境内に清麻呂公の霊社として祀られていましたが、これがいつ建てられたものなのか、はっきりと分かっていません。
その後の主な出来事を年表にすると、次のようになります。
嘉永4年 (1851年) |
孝明天皇が清麻呂公に「正一位護王大明神」の神階と神号を授ける |
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明治7年 (1874年) |
正式社名が護王神社と定められる |
明治19年 (1886年) |
現在地に社殿が造営される |
大正4年 (1915年) |
広虫姫を主祭神として清麻呂公と併せ祀られる |
護王神社の基本情報
住所 | 京都市上京区烏丸通下長者町下ル桜鶴円町385 |
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電話番号 | 075-441-5458(9:00~17:00) |
アクセス | 京都市バス 烏丸下長者町下車よりすぐ 地下鉄烏丸線 丸太町駅下車より徒歩約7分 |
参拝時間 | 6:00~21:00 |
拝観料金 | 無料 |
所要時間の目安 | 10~20分 |
公式サイト | http://www.gooujinja.or.jp/ |
まとめ
京都の猪神社といわれる護王神社の簡単な説明と、ざっくりした歴史や、和気清麻呂の物語についてまとめました。
和気清麻呂公の足の傷が癒えたことから、足腰の健康を守護する神社として、全国から参拝される方が護王神社へ多く訪れています。
2019年は亥年ですので、ぜひ立ち寄ってみてくださいね。